グイノ・ジェラール神父の説教



A 年 2019〜2020

待降節の主日


四旬節の主日





待降節第1主日
待降節第2主日
待降節第3主日
待降節第4主日
主の降誕(夜中)

四旬節第1主日
四旬節第2主日
四旬節第3主日
四旬節第4主日
四旬節第5主日


      待降節第1主日  A   201912月1日   グイノ・ジェラール神父

                イザヤ 2,1-5  ローマ 13,11-14  マタイ 24,37-44

 冬の訪れとともに、私たちも自然のリズムに従うよう典礼は誘っています。なぜなら、私たちは日常の生き方や活動にブレーキをかけ、距離を置いて考え、沈黙の時を見つけ、期待と内面的な平和の空間を自分の内に組み立てる必要があるからです。そして、それを実現するために「主の光の中に歩もう」と預言者イザヤは宣言します。

 主の光の中に、預言者イザヤは神が世界の人々に与えようとする平和を見分けています。神の平和を見分けるなら、暴力や利己主義、殺意に導く嫉妬は消え去り、喜び、分ち合い、他人の幸福への配慮、思いやり、もてなしが溢れると神は約束します。神の平和が一日も早く与えられるように、私たちは「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着ける」よう聖パウロは励ましています。「日中を歩むように、品位をもって…主イエス・キリストを身にまといなさい」と。「キリストを身にまとうこと」は、キリストのように考え、行ない、人々を見ることを意味するのです。柔和、忍耐、赦し、慈しみというイエスの愛の武器で、私たちも暴力や悪の力と戦うべきです。

 「主の光の中に歩むこと」それはランプに日毎に祈りの油を入れ「ともし火をともすこと」(参照:ルカ12,35)です。これこそ、待降節の間の私たちの務めです。同時に、主人を待つよい僕の態度を自分の身に付けるために、典礼が提案する聖書の朗読箇所の光を、毎日ともすことは大切です。なぜなら、光を浴びる人は眠りに落ち入り難いですから。昔、ノアは洪水の危険を防ぐために、救いの箱舟に入りました。私たちも、救い主の誕生を待ち望みながら、無事にすべての危険を防ぐために、自分の「魂の箱舟」つまり自分の心の静けさを避難場所としましょう。

 世の初めから、世の終りまで人々は、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしています。しかし、キリストが来られる時には、同じようで似ている態度の内に違いが現れます。その時、私たちの生き方を支えたものが明らかに啓示されるからです。それは無頓着なのか、用心深いのか、昔からの習慣なのか、それとも熱心な信仰の活動なのか、はっきりと顕されます。そういう理由で、イエスは次のように説明しました。「畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」(マタイ24:40)と。「二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(マタイ24,41)と。

 ですから、主の光を浴びて、その中を歩もうとする私たちは、目覚めて、自分の心の中にキリストへの期待を持ち、それを育て続ける必要があります。確かに、何かを待っている人はとても大切なものが自分に欠けていることを知っていますし、それを手に入れるととても幸せになることも知っています。ですからそれを迎えるために心の準備をします。これこそ待降節の期待です。

 もちろん、世の終りにキリストが来られることを私たちは知っています。しかし、思いがけない時、それがいつなのか知らせることなく、イエスは私たちの「戸口に立って、たたく」(参照:黙示録3,20)でしょう。

 「用意しなさい、目を覚ましていなさい、気をつけなさい」とイエスは強く勧めています。用意して目を覚ますことは神の味方になることです。待降節はいつか迎えに来られるキリストの前に私たちを置くのです。ですから、神との出会いを見落とさないように気をつけましょう。むしろ神の光を浴びて歩みながら、私たちの期待を強めましょう。用意して、目を覚ましているよい僕のように、希望をもって自分のなかから湧き出る喜びの叫びを少しずつ呼び起こしましょう。「マラナタ、主よ、来てください」。アーメン。



          待降節第2主日  A年  2019128日   グイノ・ジェラール神父

                イザヤ 11,1-10  ローマ 15,4-9  マタイ 3,1-12

 「希望」と「回心」は今日の待降節の典礼の主なテーマです。新しい世界の到来を望むように預言者イザヤは私たちを誘っています。この新しい世界は暴力、不正、嫉妬、憎しみを全く知らずに、平和とお互いの信頼と愛で満たされています。イザヤの預言は現実性のない約束をしているかも知れませんが、聖ヨハネは黙示録の中でそれを繰り返して述べています。「見よ、…神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(参照:黙示録21,3-4)と。このように、神の愛は私たちと共に日ごとに作り上げる明るい未来を約束しています。なぜなら、イエスは世の終りまで毎日私たちと共にいるからです。言い換えれば、この世が完成される日までイエスは一緒に留まります。これこそ私たちが育てている偉大な希望です。

 この新しい世界の到来を早めるために、私たちは回心することが必要です。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(参照:マタイ3,2)と洗礼者ヨハネは宣言します。回心することは自分の心を神に向わせることです。つまり、神を捜し求め、神を愛し、神を歓迎することを学ぶことです。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(参照:ヨハネ14,23)とイエスは約束しました。回心は希望で満たされていて、私たちを神の子とする神の慈しみを引き寄せるものです。

 また回心することは、今日聖パウロが与えた役に立つ勧めを実践することです。「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(参照:ローマ8,7)と。 隣人愛の実践は神が望まれる世界を作り上げる希望の泉です。なぜなら、隣人愛は回心への優しい道のりです。そのうえ回心は私たちの世界をもっと美しく、もっと人間らしくしようとするキリストの道を整えまっすぐにするからです。

 神と他者に対する、あるいは自分自身と世界に対する私たちが持っている眼差しを変化させるために、希望と回心は大きな助けになります。罪の暗闇から視線を逸らせるために、私たちの眼差しをイエスに向かわせしましょう。というのも、私たちを神の赦しの光に導くためにイエスは来られるからです。神の言葉が「私たちの歩みを照らし」(参照:詩篇119,105)、私たちの人生を光輝かせることを良く知っているので、世の光であるイエスは父なる神に私たちを引き寄せます。

 もし、イエスが私たちの人生の主になるなら、私たちはイエスにあってこの世に平和と美しさを返すことができるのです。イエスは「平和の君」であり(参照:イザヤ9,5)ご自分の死と復活によって悪と死の力に打ち勝った、救い主です。私たちの生き方を福音の教えにぴったり噛み合わせることで、私たちは神が約束した世界を早めに来させています。洗礼者ヨハネは正しい方で、私たちが神に立ち帰って、回心することが急務だと呼びかけています。今日、キリストの御体と御血をいただく時に、神との愛の関係、そして私たちを囲んでいる兄弟姉妹との関係が新たにされるようにイエスに願いましょう。そして何よりも先ず「神の国が来ますように」と、諦めずに願い続けましょう。希望をもって、回心しましょう、神の国は近いですから。アーメン。



       
待降節第3主日   A年  20191215日  グイノ・ジェラール神父

            イザヤ 35,1-6,10    ヤコブ 5,7-10   マタイ 11,2-11

  今日の日曜日は砂漠を花畑に変化させる喜びの日曜日です。私たちを攻撃する思いがけない出来事にもかかわらず、この喜びは私たちの心の奥底に平和を育てて安全に守ります。この喜びは預言者イザヤ自身の喜びです。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ、砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ」と、預言者イザヤはバビロンに追放されたイスラエルの民に話します。奴隷になったイスラエルの民の苦しみは、大きな喜びの泉となるでしょう。「強くあれ、恐れるな。見よ、お前たちの神を。報復が、神の報いが来る。ご自身が来られ、お前たちを救ってくださる」(参照:フランシスコ会訳)と。神の報復は決して神の民の敵に対する復讐ではありません。神の報復は、イスラエルの民を圧迫する悪の力に対する神の具体的な介入です。神の報復は「解放」と「救い」の恵みです

  イエスは、洗礼者ヨハネが預言者イザヤの約束した喜びを受けるように招きます。牢の中で洗礼者ヨハネは、イエスの態度を理解できませんでしたので、洗礼者ヨハネは暴力的なメシア、厳しい審判者の到来を告げました。しかし、イエスは柔和で、やさしい人であり、特に罪人たちに対する哀れみといつくしみを示す人です。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と弟子たちを遣わして洗礼者ヨハネは尋ねます。複雑な説明によってではなく、具体的な解放としみの行いによって「自分が来るべきメシアだ」という証拠をイエスは洗礼者ヨハネに与えます。と言うのも、昔、預言者イザヤが告げたことを今イエスが実現しているからです。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」のです。

  預言者イザヤが預言した喜びは、同時に母マリアと私たち自身の喜びです。数日後、母マリアと共に、私たちは全人類の救い主、あがない主を迎えます。クリスマスの夜に、天使たちの賛美の歌に私たちの声を合わせます。また、ベトレヘムの羊飼いたちと東方から来た占星術学者の礼拝を自分たちの礼拝とします。この日を待ちながら、神がご自分の子によって私たちに与える希望が、砂漠になっている私たちの場所に花を咲かせることを願いましょう。なぜなら、待降節の第3の日曜日は疑問を抱き、落胆と絶望にっている人々に豊かに与えられる希望と喜びの日ですから。

  確かに、試練が私たちを襲って来る時に、私たちは神に対する疑問を抱きます。また神の助けを受けない限り、私たちは簡単に落胆と絶望に陥ります。実際にイエスの誕生と復活の時から何も変わっていないように感じます。しかし、救いの計画は実現し続けています。ですから、預言者イザヤの励ましに耳を傾けましょう。「強くあれ、恐れるな。見よ、お前たちの神を。報復が、神ご自身が来られ、お前たちを救ってくださる」と。更に命と真理の言葉を語るイエスのみ言葉をよく聞きましょう。「神の国は近づいた」(参照:マルコ1,15)「神の国は、実にあなたがたのあいだにある」(参照:ルカ17,21)と。

 使徒ヤコブは自分の手紙を通して「希望の喜び」へ導く言葉を与えました。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」と。神の国の喜びがとても近いです。農夫のように働き、忍耐し、待ち望む人々にこの喜びが与えられています。

 この喜びは聖霊の賜物です。希望と勇気を与えながらこの喜びは私たちの内にある荒れた地や砂漠のようになった場所を花畑に変化させるでしょう。ですから、この冬の時に、活躍と忍耐強い期待によって、また燃え上がる希望と信仰によって、隣人愛と分ち合いによって、私たちは世界の人々に「春が近い」、そしてこの春は、必ず、神ご自身の喜びをもたらすことを証ししましょう。アーメン。



     待降節第4主日  A年  20191222日   グイノ・ジェラール神父

          イザヤ 7,10-16     ロ−マ 1,1-7    マタイ 1,18-24

  アハズ王は途方にくれています。キリスト紀元前730年に同盟したサマリアとシリアの国がエルサレムを取り囲んで攻撃しています。「王の心も、民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺していました」(参照:イザや7,2)。皆が恐怖に陥っていました。子孫がなく、イスラエルの神を信じないアハズ王は、自分の王国を救うために人間的な考えでアッシリアと敵たちに軍事同盟を結ぼうと決めました。そのため、この同盟によってユダ王国の人々は、強大なアッシリアの文化と偶像礼拝に従わなければならなくなります。

  そこで、神はアハズを救うために預言者イザヤを遣わします。アハズは神の助けを拒みますが、神はイザヤヲ通して強制的な「しるし」を与えます。アハズの不信仰にも拘らず、神は突然アハズの人生に介入し、安定した未来を約束します。アハズは子孫をもうけ、神は「インマヌエル」として彼と共におられることになります。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と。

  また、ヨセフも途方にくれています。しかし、人間的な考えを持たずに、ヨセフは自分の利益と評判を守ろうとも、復讐しようともしません。ヨセフは、直ぐ神と一致する決意をさがしています。そして自分の内の聖霊の勧めに耳を傾けようとします。「ヨセフは正しい人です」。律法に従うことで、彼は神の望まれることと一致しています。マリアを疑わず、マリアに示す愛によって分かるように、ヨセフは正直で正しい人です。そういう理由で、神は約束で満たされた未来を開く「しるし」をヨセフに与えます。神はヨセフにご自分の子を委ねます。イエスという名は「神は救う」を意味します。確かにイエスは「自分の民を罪から救うからです」。

  聖パウロも途方にくれています。神によって選ばれたイスラエルの民はどうしてイエスと彼の救いの教えを否定するのか、自分には全くわからないとローマ人への手紙の中で聖パウロは説明します。また聖パウロは律法を捨てていないのに、ユダヤ人たちが彼を「律法の敵」としたことについても説明します。しかし、イエスにより頼んで、聖霊によってイエスの命に与かっているので聖パウロの心は平和を保つことができました。「皆わたしを見捨てました…主は私の傍にいて、力づけてくださいました」(参照:2テモテ4,16-17)

   すべてが上手くいかない時、自分の目の前(未来)の行くべき道がブロックされているように見える時、神は私たちと共におられる事実をアハズ王や聖ヨセフ、聖パウロの話は思い起こさせます。このような時にわたしたちは神の内に解決を見つけるように招かれています。「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」(参照:エレミヤ1,8)と、神は私たち一人ひとりに約束します。「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(参照:マタイ28,20)とイエスは断言します。

  私たちは、皆に見捨てられ、誰からの助けもなく、自分で解決するより方法のない状態に置かれた一人ぼっちでは決してありません。私たちの試練と疑いの暗闇を照らすために神は私たちに伴い、イエスは私たちの前に光り輝く未来を開くのです。信仰を持つなら、神が私たちの試練を変えることができ、私たちを力けることを信じなければなりません。神を信じることによって、人はクリスマスの喜びと神秘性に完全に入ります。ヨセフに習って私たちも「マリアを迎え入れましょう」。マリアの傍に、そして神の内に私たちの希望と信頼を置くことを学びましょう。イエスの生誕と復活の出来事から、私たちの人生のあらゆる瞬間、死の瞬間までも、いつも神に祝福されています。「インマヌエル」である神は、私たちと共におられるからです。アーメン。

  主の降誕(夜半) A年  20191224日   グイノ・ジェラール神父

            イザヤ 9,1-35-6   テトス 2,11-14   ルカ 2,1-14

  すべてを治め、すべてを超える全能の神は、謙遜に人間である私たちの一人になることを望みました。決して騒ぎ立てずに静かにイエス・キリストを通して、ご自分の神性に私たちを与るからせるため、そして永遠の昔から私たちを愛していることを個人的に伝えるために神は人間になりました。クリスマスの神秘、つまり神の謙遜の神秘を簡単に説明するために次の言葉は十分です。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(参照:ヨハネ1、14)と、聖ヨハネはとても簡単にこの神秘を説明しました。

  このようにして、預言者イザヤの預言を実現するために、すべてを治め、すべてを超える全能の神は「インマヌエル」として私たちと共におられる神となりました。クリスマスの喜びとは「神が私たちを限りない愛で、愛していることを」発見することです。「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛します」(参照:イザヤ43,4)と、神は私たち一人ひとりに打ち明けています。そうであれば、恐れずに幼いイエスを腕に抱き閉めましょう。「人間の命は神の命に等しい」と言う事実を教えるために、イエスはお生まれになったからです。永遠の昔から、全人類と神の間に永遠の愛の契約が結ばれました。神は私たちと共にいる理由、それは私たちが神と共に親密に生きることを学ぶためです。

  確かに、「神と共に」親密に生きる人は、自分が同時に「神の内に」生きていることを悟り、体験します。というのも、私たちは皆神の一致の交わりの内に生きるように召されているからです。私たちの生きる場所は三位一体の神にあるとクリスマスの神秘は教えています。司教聖アタナシオは、次のようにこの事実を説明しました。「神が人間になったのは、人間が神になるためでした」と。私たちの間にあるイエスの誕生は、この不思議な神秘を具体的に現しています。「神は私たちの内におり、私たちが神の内にいるのです」(参照:ヨハネ14,20)。

  このクリスマスの夜に私たちと共に留まり、私たちの内におられる神の神秘を深く味わいましょう。天国の天使たちとベツレヘムの羊飼いたちと共に、私たちを救い、永遠の愛で愛する神を礼拝しましょう。また聖母マリア共に、人間になったイエスをよく見て、本当に私たちが神の姿で創られたことをわきまえましょう。更に、聖ヨセフと聖母マリアを真似て、愛と大きな喜びをもってイエスを仰ぎ見ながら、イエスの内に、神が私たちに与える栄光の未来を発見しましょう。

 そうすれば、預言者イザヤが約束した「終りのない平和」(参照:イザヤ9,6)、天使たちが楽しく歌っているこの平和で、私たちの心と礼拝が満たされるでしょう。私たちの救い主、私たちの神である「平和の君」であるイエスが私たちを守り、豊かに祝福しますように。皆さん、クリスマスおめでとうございます。アーメン。





      四旬節第1主日 A 年  202031日  グイノ・ジェラール神父

        創世記2,7-93,1-7  ローマ 5,12-19  マタイ4,1-11

  5世紀にローマで復活祭を目指して、6週間に亘って準備をしていた二つのキリスト者のグループのために、四旬節の典礼の流れが決められ、定められました。洗礼志願者たちは第一のグループで、彼らは聖土曜日の夜に洗礼を受けるのです。第二のグループは公に大きな罪を犯した人たち、あるいは道義に外れ有罪を受けた人たちでした。彼らは聖木曜日に聖堂の門の前の皆が見ている前で司教から罪の赦しを受けました。その結果、今まで彼らが受けることが出来なかった聖体拝領を復活祭の日に再び受けることが赦されました。

  四旬節の間ずっと私たちが聞く日曜日の福音は、洗礼志願者にも、神と隣人と和解するべきキリスト者たちにも、役に立つ特別な道を提案します。今日の福音は「サタンを退ける事」と「神の言葉に対する私たちの信仰を宣言すること」を強く招いています。来週の福音は、主の変容を語りながら私たちはキリストによって、キリストの内に新たにされ、栄光に輝く者となることを約束します。残っている3つの日曜日の福音は、特に洗礼の典礼の手順に私たちを招き入れます。それは先ずイエスとサマリアの女の対話、次ぎに生まれつきの目の見えない人の癒しの話、最後にラザロのよみがえりの出来事です。言い換えれば、水と聖霊の交わりの中で人が新たにされ、彼の目が神の神秘に大きく開き、死から命へと人は生まれ変わります。

 今日、教会はアダムとエバ、そしてイエスが受けた誘惑の話を聞かせます。アダムとエバは誘惑に陥りました。私たちは彼らよりも強くありません。私たちが誘惑に陥ることがないよう、イエスは神の言葉の内に誘惑に打ち勝つ力を見出すことを教えています。誰であろうと、私たちは弱い罪びとであることをはっきり認めて、この四旬節の40日間を悔い改めと節制の時として生きることがどうしても必要です。

 サタンは誘惑するために神の言葉を少し変えることが好きです。特に、私たちが神の言葉を忘れるように、サタンは誘惑を上手に使っています。「私の声を聞きなさい」とサタンは勧めます。創造されたばかりの無邪気なエバはサタンの偽りの言葉、死をもたらす言葉に簡単に騙されました。彼女は自分の不幸にアダムを引き寄せました。

 イエスが洗礼を受けた時に、人間として自分の存在を定める神の言葉を聞きました「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」(参照:マルコ1,11)と。イエスは神の子です。イエスは「人間として」、それとも「神として」、これからの自分の生き方を決めなければなりません。砂漠の静かさの中で断食しながらイエスは40日の間、自分の使命を教える父なる神の声を注意深く聞こうとしました。そこにサタンが出てきて、偽りの言葉と幻影を利用してイエスを誘惑します。サタンのすべての誘いにイエスは「神の言葉を聞け。この言葉は命と真理です」としっかりと答えます。サタンは去ることしか出来ませんでした。イエスの選択が決まりました。生涯に亘ってイエスはただ「人の子として」生きることにしました。

  この四旬節の間、私たちも40日間を明白な戦いの時にしましょう。それは日常生活の選びに対する自分の内に響く誘惑の声と神の声をはっきり区別するためです。私たちは“自分の利己主義的な偽りの欲望の満足に答える”か、それとも、“私たちを自由にし、悪に打ち勝つ力を与える神の声を注意深く聞くことにする”か、どちらかです。なぜなら、聖土曜日の夜に私たちは真理をもって、正直に神様と皆の前で次のことを宣言するからです。「私はサタンと神に反するすべてのものを退けます。私は父なる神を信じ、神の子として自由に生きたいです。私はイエスを信じ、弟子として彼の後に従いたいです。私は聖霊を信じ、その教え導きを受けたいです」と。神の声に自分たちの心を大きく開くことができるように、この恵みの時である四旬節が私たちを強め、新たにしますように。神の声は私たちに人を救い、癒し、守り、豊かに生かす、真理の言葉を語るからです。神の言葉はイエス・キリストご自身です。アーメン。


                                                    
     四旬節2主日 A年   2020年3月8日    グイノ・ジェラール神父

            創世記 12,1-4   2 テモテ 1,8-10   マタイ 17,1-9

 先週の日曜日、私たちはイエスの人間としての様子を見ました。イエスは「人間」としてではなく「神の子」として生きるようにというサタンの誘惑を受けました。しかし、イエスは普通の人として生きることに決めました。イエスは、愛する人、苦しむ人、赦す人、私たちを救うために死ぬことを選んだ人として生きることに決めました。それでも、今日、一瞬のうちに「神の栄光」はイエスの人間の顔に現れます。

 確かに、選ばれた三人の弟子たちの前で、血の流れる手、涙を流す目、疲れた体を持っている「人間」であるイエスと同時に、全人類を救う決意をした「神の子」であることもはっきりと啓示します。一瞬のうちに、イエスの神聖の光彼の体を通して現われました。天から聞こえる神ご自身の声、そしてイエスの傍に立っているモーセとエリヤの現存によってキリストの神聖が保証されています。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と。

 何週間か後で、ペトロとヤコブとヨハネは、ゲッセマネのオリーブの庭で、苦しみによってゆがんでいるイエスの顔を見るでしょう。前もって、自分の弟子たちを強めるために、イエスは一瞬の間だけ彼らの目に、自分の人間性のうちに隠されている神聖を見ることを許しました。

 キリストにおける私たちの信仰は「神がおられる」ことだけではなく、「神の栄光はイエスという人のうちにある」ことを宣言します。また「イエスによって救われた人間、とても弱い者であっても、その人間も神のうちに変容されるように召されていることを私たちの信仰は宣言します。この事実を理解させるために書かれた福音の中で、マタイによる福音書は、わざと同じ言葉を使いました。つまり「イエスの顔は太陽のように輝き」(参照:マタイ17, 2)と復活の日に「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」(参照:マタイ13, 43)と。洗礼を受けた途端、私たちは復活したキリストの神秘に完全に合わせられたので、私たちも「神の子」として生きるように召されているのです。

 ですから、この四旬節の間に、変容するイエスの光と生かされる神のみ言葉の光を十分浴びるように熱心に努めましょう。罪の暗闇を避け、神の聖性で光り輝くキリスト者になりましょう。イエスに倣って、私たちも祈ることによって変容されるに違いありません。アブラハム、モーセ、預言者エリヤは「祈りの人」であったからこそ、神親しく生きることができました。モーセの顔は特に光り輝いていたので、顔にベールをかぶせることが必要でした(参照:出エジプト34,35)。

 私たちが祈っているうちに、私たちの心と精神を圧迫邪魔する物事から解放するために神は働いています。と言うのも、これらの物事は私たちの信仰と希望を汚し、勇気と寛大さを奪い、落胆に導くからです。神は必ず、祈っている人の顔にご自分の現存の輝きを残します。「主を仰ぎ見る人の顔は光り輝く」(参照:詩編34,6)。祈りはまた聖霊の力、エネルギーと生命力を豊かに与えます。

 イエスをしっかりと見つめながら、イエスの教えに私たちの信仰と行いが根を下ろすようにして、聖パウロが勧めているように「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきましょう」(参照:2コリント3,18)愛をもって、私たちの神と救い主である「キリストは、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(参照:フィリピ3,21)ことを信じ、宣言しましょう。 アーメン。



       四旬節第3主日   A年  2020年3月15日   グイノ・ジェラール神父

            出エジプト17,3-7  ローマ 5,1-25-8  ヨハネ 4,5-42

 水が無くては生き物の命はありません。しかし、水が多量に押し寄せると死を運んできます。荒れた地では水は豊かさの象徴であり、生き延びることのできる場所は「オアシス」と呼ばれています。この言葉は古代エジプト語に由来していて「住む場所」を意味しています。確かに水が溢れるところに人々は集まり、家を造り、畑を耕します。オアシスは、一緒に仲良く生きることを学ぶ場所です。

 ヘブライ人たちは長い時間暑い砂漠の中を歩いたので、のどが渇いています。のどの渇きを癒す場所を見つけられないので、彼らはモーセに不満を持ち怒りを表します。彼らはモーセに文句をつけたうえに、神の力について疑いを持つようになりました。そこで、神の命令によってモーセが湧き出させた生きた水の泉は、今日まで「分裂(マサ)」と「争い(メリバ)」という恥ずかしい名を持っています。

 聖書によれば、井戸もオアシスと同じように出会いの場です。井戸のところで結婚が決められ、商売の契約を結びます。イエスとサマリアの女が出会っているヤコブの井戸は、彼らにとって深い出会いの場となりました。そこでイエスの言葉が、サマリアの女の心の奥底に入り込みます。イエスはサマリアの女に自分自身が「命の水の泉」であることを説明します。自分の言葉によって、イエスはサマリアの女の唇に「彼女の心にある人生の真理」の言葉を話させます。「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と。乾燥した砂漠に湧き出る泉よりも、荒れた地にある井戸よりも、イエスの言葉は命の源泉です。

 聖パウロは出エジプトの物語の中に「生きた水の泉である」キリストの姿を見ました。「ヘブライ人たち皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」(参照:1コリント104)と。ヘブライ人たちは知りませんでしたが、確かにキリストは彼らの命の泉でした。砂漠の中でヘブライ人たちの歩みに伴った岩は「私たちがどこにいても、イエスが私たちに伴う」ことを表しています。私たちがどの様な状態の中に置かれていても、イエスが一緒にいて、霊的に私たちに必要とする霊的な水を与えるのです。

 聖パウロはイエスのうちに神と一致させ、真の平和を与える「希望と信仰の泉」を見分けました。聖パウロの話によると「イエスはある恵みの状態に立ち入ることを許す」(参照:ローマ5,2 フランシスコ会訳)愛の泉です。昨日も、今日も、ご自分の言葉と私たちを救うために捧げられた命によって、イエスは悪のあらゆる傷を癒し、神と一致させる生きた水の泉を私たちの心の中で湧き出させています。

 身体的な渇きがあれば、霊的な渇きもあります。この渇きを「神への渇き」と聖書は名付けました。「神に、命の神に、わたしの魂は渇く」(参照:詩編42,3)と詩編が宣言します。イエスも私たちの愛の水や私たちの心遣いを慕って、渇いています。「渇く、水を飲ませてください」とイエスはサマリアの女に言った最初の言葉は、十字架上でイエスが叫ぶ最後の言葉でした(参照:ヨハネ1928)。槍で突き刺されたわき腹から私たちの渇きを癒す「生きた水の泉」を湧き出すために、イエスは私たちの愛を乞い求めています。

 サマリアの女に言われたことをイエスは私たちにも言われます。ですから、耳を傾けて、注意深くそれをよく聞いて理解しましょう。「もしあなたが、神の賜物を知っており(それを言った人が誰であるかを知っていたなら)あなたの方からわたしに頼み、わたしはあなたに生きた水を与えたことであろう」。アーメン。



     四旬節第4主日  A年  2020322   グイノ・ジェラール神父

      1サムエル記 16,16-710-13  エフェソ5,8-14    ヨハネ9,1-41

 先週の日曜日の典礼は、私たちに水の象徴を提案しました。今日の典礼は、光のシンボルを差し出します。洗礼を受けた時、私たちは「光の子」なったと聖パウロは言います。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」と。 私たちを囲んでいる暗闇に打ち勝つために、四旬節の典礼は信仰の光に入るように私たちを誘っています。

 今日の福音を通して「自分が世の光であることを」イエスは宣言します。その前に聖ヨハネはキリストに癒された一人の生まれつきの盲人がどのように信仰の光を受けたかを語っていました。残念なことに、この奇跡は癒された人を囲んでいる人々を目の見えない人にしてしまいました。見えない目を癒すことは体の一部分のことですが、その人の眼差しを変化させることはもう一つの別のことです。目のおかげで私たちは周りの様子をよく見ることができます。しかし、私たちの眼差しは偏見と恐れと恨みをもっているので、愛と慈しみが中々その眼差しを照らす光をもたらすことができません。やはり、すべてをキリストの眼差しで見ることは容易ではありません。

 サムエル記がこの事実を思い起こさせます。「神は、人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によってみる」と。そういう訳で、とても若く体験も少ない赤毛の青年ダビデが他の立派な七人の兄弟たちよりも神に選ばれました。びっくりした預言者サムエルは、ダビデが選ばれる可能性があったことを全く考えませんでした。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(参照:ヨハネ9,39)とイエスは断言しました。

 イエスの時代に神の民の責任を持つ人々は、イエスを通して神の言葉を受けるようにすべての恵みを受けていました。しかし、彼らはキリストの教えを聞こえないようにし、またキリストの不思議なしるしを見えないように、自分の耳と目をふさぐことにしてしまいました。もし私たちが個人的に、自分の中にイエスの言葉の光を受け止めることを学ぼうとしないならば、それはキリストの時代の人々の態度と同じような態度になる危険性があります。イエスの言葉の光を注意深く学ばない表面的な聞き方は、完全な盲目に繋がる可能性があるからです。

 むしろ、注意深くイエスの言葉の光を心に受け止め、思い巡らすなら、自分の生き方のうちにたくさんの変化が現れるでしょう。そして、いつか誰かが私たちに次のように言うでしょう。「本当にあなたはとても変わりました。昔のあなたはすっかり消えて、もう覚えていません」と。その発言に対して、私たちは福音の癒された盲人の証しの言葉を借りて次のように宣言するでしょう。確かに私は変わりました。イエスの愛で満ちた眼差しとイエスの救いの言葉が私を照らしたので私は新たにされました」と。

 慈しみの特別聖年のための祈りを思い起こしましょう。「主よ、あなたの愛に満ちたまなざしによって、ザアカイとマタイは富への執着から解き放され、姦通の女とマグダラのマリアは、この世のものだけに幸せを求めることから解放されました。ペトロはあなたを裏切った後に涙を流し、悔い改めた盗人には楽園が約束されました」。今日こそイエスの言葉が私たちを照らす日になるように、イエスの優しい眼差しが私たちに注がれることを強く望み求めましょう。そして私たちの眼差しがイエスに似た者へと変化するように神に願いましょう。そうすれば、私たちはキリストの目ですべてを見、キリストの慈しみと癒しの力を人々にもたらすことになるのです。ですから、キリストの言葉の光を浴びて、新たにされた眼差しですべてを見、お互いにお互いのために祈りましょう。 アーメン


四旬節第5主日  A年  2020329日   グイノ・ジェラール神父

    エゼキエル37,12-14     ローマ 8,8-11     ヨハネ11,1-45

 自分の墓から出て、キリストの命に生きるためにキリストと共に復活することを預言者エゼキエルと聖パウロの二人が勧めています。「わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わたしが主であることを知るようになる」と神の名によって預言者エゼキエルは宣言します。私たちの神は「命の神」です。死を避けることはできません、しかし、死はいつも勝利するように思われるので、それに対して聖パウロは希望に満たされた教えを私たちに与えました。「キリストを死者の中から復活させた神は、あなたがたのうちに宿っているその霊によって、あなた方の死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」と。 救い主イエス・キリストは死に打ち勝った人です。そのために私たちも福音のマルタのように「イエスは命であり、復活である」 ことを固く信じ、宣言しなければなりません(参照:ヨハネ1125)。

 復活の事実は世の終わりに実現される出来事だけではありません。復活は今、現在の個人的な出来事でもあり、それによって私たちはイエスと直接に結ばれています。聖パウロは次のようにそれを説明しました。「洗礼によってわたしたちはキリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じ、キリストと共に復活させられたのです」(参照:コロサイ2,12)と。イエスご自身もそれについて証ししています。「私を信じる者は、死んでも生きる。生きているわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(参照:ヨハネ112526)と。死は私たちのすぐそばに近寄り、愛する人を奪うたびに、イエスは私たち一人ひとりに「信じますか」という質問を繰り返して、私たちの信頼にあふれる答えを求めます。

 この四旬節を通して、イエスはご自分の命を私たちに預けたいのです。イエスの命を滅ぼすものはなにもありません。それは永遠の命ですから。信じることは神について何かを知ることではなく、むしろ神に耳を傾けること、そして神を愛し、神に信頼を示すことです。信じることとは、神は私たちの内に生きていて、確かに私たちの内に留まっていることを体験することです。その体験をしたパウロは「私たちの命は、キリストと共に神の内に隠されています」(参照:コロサイ33)と打ち明けました。勿論それを知ったとしても、私たちの人間としての状態を災いや苦しみから守ることはできません。しかしこの知識は、自分のうちに信頼の広いスペースを開き、そこで神は効果的に働くことができます。

 私たち洗礼を受けた時から永遠の命が始まりました。しかし私たちの生き方の中で死臭や腐敗臭を発していることがあります。それは偏見、恨み、自己愛、妬み、高慢、利己主義、無頓着、赦しの否定などから出る悪臭です。墓から出て来たラザロと同じように、私たちも悪臭の覆いで包まれています。ですから、この四旬節の間にそれを全部ほどくようにイエスは私たち一人ひとりを誘っています。

 また、もし自分を縛り、罪の鎖に巻かれそこから解放されていないのなら、復活祭までに、必ず赦しの秘跡を受けましょう。私たちが持っている神の子の資格を活かし、強めるために、父なる神と私たちをしっかりと一致させたいイエスの教えを素直に受けましょう。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(参照:ヨハネ17,3)とイエスは私たちに思い起こさせます。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです」(参照:ルカ20,38)。ですから、聖霊の力と教え導きを願いながら、神の命に生きていきましょう。神は約束しました。「私がお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。お前たちは私が主であることを知るようになる」(エゼキエル37,13-14)と。アーメン。



               トップページに戻る